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きっと上手くいく
気ままな主夫が、自身の経験、感情等を元に勝手な視点から気の向くまま執筆した文書を掲載しています。
壊れた車
エピローグを最初に
背伸をするのは仕方がないことだと今は思う。
辛い時は必ず言わなければいけないのだと今は思う。
生きることには努力が必要なんだと今は思う。
少しだけ誰かを幸せにできたらすごいと今は思う。
皆、生きている意味は十分過ぎるほどあるのだと今は思う。
53年間を費やしてやっと気づけた。
それでも、遅くないと思う。
車体とエンジンのバランス
軽自動車にスポーツカーのエンジンを積載できたよ。
これからアクセルをベタ踏みして走り続けてみるね。
この車は最後まで持つのかな?
わからないけど調子良いし、早く走れるよ。
<2023年9月>
やっぱり、車体もエンジンも壊れてしまったね。
もう、「オンボロ車」を通り越して、「壊れた車」だね。
「壊れた車」は、あの時の私を例える表現。

予定外に早まった最終出社日
2024年3月27日、仕事を終えて帰宅した後、自宅へ部下二人が訪ねてきた。何やら重々しい雰囲気を醸し出している。そして、部下の一人が口火を切り私に告げたことは、「パソコン、スマートフォン、そしてセキュリティーカードを回収させてください。明日以降の出社は必要ありません。」だ。
2週間後に予定していた最後出社日が今日となった。
この日開催された取締役会で、私は酷い悪態をついた。私は転職を5回経験(住宅メーカー、創薬会社、不動産会社、国の認可法人、そして、最後のコンサルティング会社)しており、退職の際は「立つ鳥跡を濁さず」を心掛けていたのだが今回は出来なかった。
突然の会社貸与品の回収は、自分が巻いた種であり当然の報いだ。
2週間後に予定していた私の送別会の中止もまたこれも当然の報いだ。
原因不明の体調不良
2023年9月ごろから体調不良を感じるようになった。初めは頭痛と睡眠障害に悩まされた。その後、手足の指の痺れや手足の震えを感じるようになった。オフィスまでのエレベータに乗車すると足がガタガタと震えた。前に進むことができず長時間縁石に座り込むことがあった。終に、手から大量の汗が出るようになり会社から貸与を受けたノートパソコンを1台壊した。
脳のMRI検査、CT検査、甲状腺エコー検査、血液検査など、様々な検査をしたものの残念ながら原因は判明しなかった。ただ、体が言うことを聞いてくれない。
2023年12月のある日、妻に「死んでしまったら元も子もないからいますぐ会社を辞めて来て」と言われ退職することを決意し、速やかに退職の申し出をした。
体調を考えると早く退職をするべきであったが、抱えてきた膨大な業務の引き継ぎ資料をまとめること、兼務していた子会社の管理業務の責任者としての職責を後任者に引き継ぐこと、何よりも2024年3月27日に開催された株主総会、及び株主総会後に開催された取締役会で決議される事項を立案する必要があるために在籍していた。これは、管理系責任者としての責任と考えていた。
過労死ラインをはるかに超える長時間労働は、私の心身を更に蝕んでいった。
結果として、退職する予定であったことは変わりないが、少し早めに退場になっただけのことである。
反省すべき仕事ぶり
結構、多岐にわたる職務を同時に担ってきた(と自負している)。
結構、面倒で手間のかかる課題を解決してきた(と自負している)。
結構、長い時間を費やし仕事を完遂してきた(と自負している)。
しかし、部下と十分に話す時間を持つ余裕すら持てなかった。情けない。
しかし、好きなことをしているという気持ちを持てなかった。残念でならない。
ただ、結果として体を壊した。
うつ病の苦しみ
2024年4月に「うつ状態」という病名がついた。幻覚や幻聴が繰り返し起こった。夜中に複数の僧侶が経を唱える声が聞こえた。8階のマンションのベランダの向こう側の世界を考えたことがあった。
心療内科で治療を開始したが、心療内科医が処方した抗うつ剤や睡眠導入剤の薬を服用したところ、最大で1日5リットルのバケツがいっぱいになるほど嘔吐をするようになった。私は、処方された薬の副作用と考え心療内科医に相談したものの処方薬の変更や減少はなかった。
今思い返すと冷静な判断ができない心身の状況であったのだろう。心療内科医の指示通りに処方薬の服用を続けていたところ、ある日、妻が私の白目が黄色いことに気づいた。
慌てて内科を探して診察を受けたが、既に肝機能不全となり黄疸が出始めていた。白目に出た黄疸は、顔、首、上半身、下半身へと広がり見事に全身が真黄色になった。本当に黄色から驚く。同時に、排尿が極端に減少して体がむくみ7キロ近く体重が増加していった。体から尿のような匂いを発するようになり、風呂に入っても匂いが消えない。体毛から尿が漏れているような匂いだ。内科医が処方した肝機能を改善する薬を服用するとともに、内科医の指示で診療内科医の処方した薬の服用を中断した。
今は別の心療内科へ変更をしており、現在の主治医は私の体調を確認しながら処方薬の種類や量を調整してくれている。無事に生きている。
最終出社日から1年
体調不良を感じてから1年経過した今は通院中であるが大分落ち着いてきた。
自宅マンションのローンは完済してあるし、これまでの蓄えと年金を無事に受給できれば贅沢をしなければ会社に勤めなくとも生活できる。
それでは、これからは何をして生きていこうか。これからはどのような人生を歩もうか。
最終出社日の2024年3月27日以降、4月に糠床を育て毎日ぬか漬けを食べ初めた。同時に私は食事作りを担当して妻が掃除と洗濯を担当する分業体制に移行した。5月に大型二輪自動車の免許を取得してバイクキャンプを初めた。9月に年配者が多い地域の団体に入会した。10月に手料理を掲載するホームページを制作した。12月に加入した団体の副事務局長(7名の1人)に就任した。
しかし、充実感がない。
これからの人生
そんな時、妻が図書館で「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)を借りて貸してくれた。
この本は、「著者」と著者の中にいるイマジナリーフレンドである「ジム」が対話をしながら好きなことを実現していく実話である。著者は、早稲田大学理工学部建築学科を卒業した後、「誰かの命令を聞いてやりたくないことまでして、どれだけ頑張ってもやった分だけ対価がもらえるわけでもない。退屈すぎる。」と感じ就職しなかったという。
私は、著者と同様にこれからの人生は「好きなことをやる」ことを決意した。
壊れた車の修理
私は、「好きなこと」の棚卸しから初めた。最初に思いついたのは「執筆」、「写真撮影」、「絵を描く」、「絵本制作」だ。今後も増えると思うがここからスタートする。
また、上手く行くためのルールを作る。これは、「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)の著者の1日の時間割を参考にしたものだ。
・「執筆」ルール:毎日10分は書く。自分の経験や感情に基づいたエッセイから初める。
・「写真撮影」ルール:毎日1枚は撮る。気取らず気になった物をカメラに収める。
・「絵を描く」ルール:1週間に1作は描く。道具は、鉛筆と色鉛筆とペンを使う。
・「絵本制作」ルール:ストーリーから制作する。テーマは「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)の著者が常に意識していた「きっと上手くいく」とする。
毎日、エッセイと絵本のストーリーを執筆し、撮った写真など参考にエッセイや絵本の挿絵とする。そして、制作したものは全て私のホームページに掲載する。
制作物を掲載しやすいようにメニューに「随筆家」「作家」「写真家」「画家」を追加する。
「壊れた車」を少し修理して、「オンボロ車」を走らせよう。
「オンボロ車」が走り出す
私のホームページのメニューに「随筆家」「作家」「写真家」「画家」を追加した。
「随筆家」欄には、うつ病の罹患とそこからの出発を事実の通り記した。
「作家」欄には、愛犬の未結の成長を絵本のように記した。
「写真家」欄には、お気に入りの2枚の写真を掲載した。
「画家」欄には、「壊れた車」と題した自画像を制作し掲載した。
また、ホームページの閲覧数を増やせるようSEO設定(検索エンジン最適化「Search Engine Optimization」の略)を行った。1年後の自分、5年後の自分、10年後の自分が楽しみだ。1年後の2026年9月頃までの1年間、ルーティーンを継続できたら書籍を出版する。複数の方に読んでもらうための方法を考える。日本にこだわる必要はない。世界中のどこかには私の本を読んでくれる人がいる。
きっと上手くいく。
将来の夢は右脳系
小学校1年生の頃に先生に将来の夢を問われた。確か、最初の回答は医者。多分前日のテレビで救命救急医が奮闘する姿を見て惚れたのだと思う。一瞬でその夢は消え去っていた。おそらく実際は、初めの夢は画家。その次は雀士、その次はイラストレーター、その次はウェブデザイナーだ。
しかし、夢を追う選択を考えることなく、大学卒業して会社に就職した。
「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)の著者の「誰かの命令を聞いてやりたくないことまでして、どれだけ頑張ってもやった分だけ対価がもらえるわけでもない。退屈すぎると感じ就職しなかった。」という選択とは大きな違いがある。
走るのが早かった
小学校の5、6年の頃、校庭のグランドを何周かすると1マス塗りつぶすことができるスタンプラリーのようなものがあった。熱中して始業前は当然のこと、休日でも学校に行きひたすら走っていた。1人で走っていたが誤魔化さずルール通りに塗った。おそらく、私だけがスタンプラリーの2枚目に入ったのではないか。走ってばかりいたので知らずに足が早くなっていた。
中学校1年生の時、足の速さは目立った。
マラソン大会は学年1位の成績であった。輝かしい栄光だ。
その足の速さを買われ中学校1年生にして、中学校対抗駅伝大会の選手の1人に抜擢され見事第一区を指名された。当時の駅伝メンバーは県大会を狙えると言われ校長から大いに期待されていた。輝かしい栄光だ。
しかし、物事には想定外なことがたまに起こる。
期待された第一区走者である私の成績は13校中13番。私は、脱水症状に陥り、フラフラしながらゴールはしたものの、意識がなく、ゴールで倒れ込んでいた。
県内1位の進学校に進む
中学校では生徒会長に就任し、卒業後は県内1位(または2位)の偏差値の公立高校に入学した。輝かしい栄光だ。
中学校ではサッカーに明け暮れていたせいか、1年生と2年生の学業の成績は「下の下」だったと記憶している。生徒会長に何故立候補したのかの記憶は定かではないが、クラスで手を挙げるものがおらず、無理に立候補させられたのだと思う。結果的に就任したのは良い経験だったと今は思う。
しかし、物事には想定外なことがたまに起こる。
生徒会長就任後に、教員室で「歴代の生徒会長は県内1位の偏差値の公立高校に入学している。」とい不愉快な歴史を聞かされた。私の学業の成績は「下の下」であり無理難題である。受験を控えた中学校3年生のある時期から学校に行かずに自宅で猛勉強をした。本来許されないことだと思うが、先生方も「不愉快な歴史」を重んじていたので見て見ぬふりをしてくれた。
猛勉強の結果、学業の成績は学年10位以内ぐらいには入れたと記憶している。
見事に県内1位(または2位)の偏差値の公立高校に入学出来た。
「不愉快な歴史」は、次の生徒会長で途絶えたと後に聞かされた。
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