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居酒屋🏮未結
本サイトは、気ままな主夫が主に家庭料理を掲載しているブログです。気まままなので気の向くまま好きなことを掲載しています。
きっと上手くいく
気ままな主夫が、自身の経験、感情等を元に勝手な視点から気の向くまま執筆した文書を掲載しています。
壊れた車
軽自動車にスポーツカーのエンジンを積載し、アクセルをベタ踏みして走り続けてみた。
車体とエンジンのバランスが悪いが、調子がとても良く早く走れた。
しかし、2023年5月ごから車は徐々に故障が出始めてやがて「オンボロ車」となり、2023年12月には故障箇所が膨大に増えていた。
そのまま「オンボロ車」を放置したら2024年3月ごろに「壊れた車」となった。
「壊れた車」は、あの時の私を例える表現だ。

目次(章立てはページ右側のメニューで参照ください。文書が未完成の章もあります。)
まえがき
私は、高校を卒業するまで、家族や友人と日帰りの遠出に行った記憶が無い。もしかしたら、家族との遠出は1回や2回はあったかもしれないが覚えていない。私は、下校時間後や休日に友人と自由に遊んだ認識が無い。ただ、私は、部活の遠征試合の帰宅予定時間、休日の校舎の閉門時間、図書館の閉館時間、そして塾の終了時間など、親への言い訳が可能な時間の範囲で友人と遊んだ。勿論、言い訳が可能な場所には私は居ない。
私は、常に親の「監視下」で行動してきた。誰しも門限というのがあるのかもしれないが、私の「監視下」とは少し違う。私は、許可された範囲で行動するのではなく、抜け道を探して行動してきた。
私は、常に『親の期待に応える』ことを要求されてきた。そして、親の過度な期待が長い間私を苦しめていた。多くの親が抱く子に対する期待というものは似通っているのかもしれない。子を持たなかった私は親になる気持ちがわからない。私が子を持っていたら私の親のように期待していたのかもしれない。
もう、遠い昔のことだ。
私は、中学校1年でマラソン大会1位を獲得し、中学校で生徒会長に就任し、県内トップの偏差値の高校に進学し、慶應大学に進学し、上場会社に勤め、そして、53歳でアーリリタイアをした。
誰もが羨む順風満帆に見える人生だとしても、必ず異なる側面を秘めている。
私は、53歳でうつ病と診断されて気づくことができた。
私には、伝えいたいことがある。
あなたが、自分の短所を気にしているなら、放っておこう。私は、短所が時に役に立つこともあるし、たとえ、短所が役に立たなくとも長所を見つけることの方が重要だと伝えたい。
あなたが、(他者から見ると)不毛なことに明け暮れていても、信じよう。私は、明け暮れたことが重要だと伝えたい。
あなたが、自分の成長のためにもがき苦しんでいるなら、頑張ろう。私は、頑張ったことが必ず実を結ぶと伝えたい。
あなたが、(他者から見ると)些細なことにこだわり探求しているなら、追求しよう。私は、追求したことが強みになると伝えたい。
あなたが、自分を追い詰めていると感じるなら、立ち止まろう。私は、立ち止まらないと病気になると伝えたい。
あなたが、自分は好きなことをして生きていないと感じているなら、待とう。私は、病気になるまで十分に出来なかったが、必ずできる時期がくると伝えたい。
あなたが、誰かの期待に応えるためにもがき苦しんでいるなら、離脱しよう。私は、自分が好きなことをして、少しだけ誰かを幸せにするために生きることを決めた。あなたはどうしたいか考えてほしいと伝えたい。
序章 うつ病を患うまで気付けない
2週間後の最終出社日が繰り上がり送別会も中止となる
2024年3月27日、仕事を終えて帰宅した後、自宅へ部下二人が訪ねてきた。何やら重々しい雰囲気を醸し出している。そして、部下の一人が口火を切り私に告げたことは、「パソコン、スマートフォン、そしてセキュリティーカードを回収させてください。明日以降の出社は必要ありません。」だ。2週間後に予定していた最後出社日が今日となった。
私は、この日開催された取締役会で酷い悪態をついた。私は、転職を5回経験(住宅メーカー、創薬会社、不動産会社、国の認可法人、そして、最後のコンサルティング会社)しており、退職の際は「立つ鳥跡を濁さず」を心掛けていたのだが今回は出来なかった。
突然の会社貸与品の回収は、自分が巻いた種であり当然の報いだ。2週間後に予定していた私の送別会の中止もまたこれも当然の報いだ。
仕事ぶりに反省する
私は、多岐にわたる職務を同時に担ってきた(と自負している)。
私は、面倒で手間のかかる課題を解決してきた(と自負している)。
私は、長い時間を費やし仕事を完遂してきた(と自負している)。
その結果、私は、重要な役職を与えられた(と自負している)。
しかし、私は、好きなことをしているという気持ちを持つことはできなかった。
私は、常に『経営者の期待に応える』ことを優先して仕事をしていた(と思う)。
私は、かつて『親の期待に応える』生き方を選択し苦しみ、今度は『経営者の期待に応える』生き方を選択し苦しんだ。
私は、私の仕事ぶりに反省したい。
心身は蝕まれている
2023年9月ごろから徐々に体調不良を感じるようになった。初めは頭痛と睡眠障害に悩まされた。その後、手足の指の痺れや手足の震えを感じるようになった。オフィスまでのエレベータに乗車すると足がガタガタと震えた。前に進むことができず長時間縁石に座り込むことがあった。終に、手から大量の汗が出るようになり会社から貸与を受けたノートパソコンを1台壊した。
脳のMRI検査、CT検査、甲状腺エコー検査、血液検査など、様々な検査をしたものの残念ながら原因は判明しなかった。ただ、体が言うことを聞いてくれない。
2023年12月のある日、妻に「死んでしまったら元も子もないからいますぐ会社を辞めて来て欲しい。」と言われ退職することを決意し、速やかに退職の申し出をした。
体調を考えると早く退職するべきであったが、抱えてきた膨大な業務の引き継ぎ資料をまとめること、兼務していた子会社の管理業務の責任者としての職責を後任者に引き継ぐこと、何よりも2024年3月27日に開催された株主総会、及び株主総会後に開催された取締役会で決議される事項を立案する必要があるために在籍していた。これは、管理系責任者としての責任と考えていた。過労死ラインをはるかに超える長時間労働は、私の心身を蝕んでいった。
うつ病は苦しい
2024年4月に「うつ状態」という病名がついた。幻覚や幻聴が繰り返し起こった。夜中に複数の僧侶が経を唱える声が聞こえた。8階のマンションのベランダの向こう側の世界を考えたことがあった。
心療内科で治療を開始したが、心療内科医が処方した抗うつ剤や睡眠導入剤の薬を服用したところ、最大で1日5リットルのバケツがいっぱいになるほど嘔吐をするようになった。私は、処方された薬の副作用と考え心療内科医に相談したものの処方薬の変更や減少はなかった。
今思い返すと冷静な判断ができない心身の状況であったのだろう。心療内科医の指示通りに処方薬の服用を続けていたところ、ある日、妻が私の白目が黄色いことに気づいた。慌てて内科を探して診察を受けたが、既に肝機能障害となり黄疸が出始めていた。白目に出た黄疸は、顔、首、上半身、下半身へと広がり見事に全身が真黄色になった。本当に黄色から驚く。同時に、排尿が極端に減少して体がむくみ7キロ近く体重が増加していった。体から尿のような匂いを発するようになり、風呂に入っても匂いが消えない。体毛から尿が漏れているような匂いだ。内科医が処方した肝機能を改善する薬を服用するとともに、内科医の指示で診療内科医の処方した薬の服用を中断した。
今は別の心療内科へ変更をしており、現在の主治医は私の体調を確認しながら処方薬の種類や量を調整してくれている。無事に生きている。

第二章 「好きなことをして生きる」宣言
これからの人生好きなことをする
体調不良を感じて2年半近く経過した今も通院中だが大分落ち着いてきた。
自宅マンションのローンは完済してあるし、これまでの蓄えと年金を無事に受給できれば贅沢をしなければ会社に勤めなくとも生活できる。これからは何をして生きていこうか。これからはどのような人生を歩もうか。
最終出社日の2024年3月27日以降、ぬか漬けを作り初め、2年半近く毎日ぬか床をかき混ぜている。同時に私は食事作りを担当し、妻が掃除と洗濯を担当する分業体制に移行した。5月に大型二輪自動車の免許を取得してバイクキャンプを初めた。9月に年配者が多い地域の団体に入会した。10月に手料理を掲載するホームページを制作した。しかし、充実感がない。
ある日、妻が図書館で「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)を借りて貸してくれた。この本は、著者と著者の中にいるイマジナリーフレンドである「ジム」が対話をしながら好きなことを実現していく実話である。著者は、早稲田大学理工学部建築学科を卒業した後、「誰かの命令を聞いてやりたくないことまでして、どれだけ頑張ってもやった分だけ対価がもらえるわけでもない。退屈すぎる。」と感じ就職しなかったという。
私は、これからの人生は『好きなことをして生きる』ことを決意した。
壊れた車を修理して走らせる
私は、「文書を書く」「写真を撮る」「絵を描く」ことから始めた。また、上手く行くためのルールを作る。
・「文書を書く」ルール:3日以上間を空けることなく書く。自分の経験や感情に基づいたエッセイから書き始める。
・「写真を撮る」ルール:3日以上間を空けることなく撮る。気取らず気になった物をカメラに収める。
・「絵を描く」ルール:3日以上間を空けることなく描く。道具は、鉛筆と色鉛筆とペンを使う。
毎日、文書を書き、写真を撮り、絵を描き、制作したものは全て私のホームページに掲載する。制作物を掲載しやすいようにメニューに「随筆家」「作家」「写真家」「画家」を追加する。
私は、「壊れた車」を少し修理して、「オンボロ車」を走らせる。
私は、好きなことをする人生を歩み出した。
遅咲きながら将来の夢を追う
小学校1年生の頃に先生に将来の夢を問われた。確か、最初の回答は医者。多分前日のテレビで救命救急医が奮闘する姿を見て憧れたのだと思う。一瞬でその夢は消え去っていた。おそらく実際は、最初の夢は画家。その次は雀士、その次はイラストレーター、その次はウェブデザイナーだ。
しかし、夢を追う選択を考えることなく、大学卒業して会社に就職した。
「生きのびるための事務」(坂口恭平-原作、道草晴子-漫画)の著者の「誰かの命令を聞いてやりたくないことまでして、どれだけ頑張ってもやった分だけ対価がもらえるわけでもない。退屈すぎると感じ就職 しなかった。」という選択とは大きな違いがある。
私は、遅咲きながら将来の夢を追う。随筆家として私の人生を振り返ることからはじめる。
第三章 中学生(3年)
中学校代表の第一区駅伝走者はビリでゴールする
小学校の5、6年の頃、校庭のグランドを何周かすると1マス塗りつぶすことができるスタンプラリーのようなものがあった。熱中して始業前は当然のこと、休日でも学校に行きひたすら走っていた。1人で走っていたが誤魔化さずルール通りに塗った。おそらく、私だけがスタンプラリーの2枚目に入ったのではないか。走ってばかりいたので知らずに足が早くなっていた。
中学校1年生の時、足の速さは目立った。マラソン大会では学年1位だ。その足の速さを評価され中学校1年生にして、中学校対抗駅伝大会の選手の1人に抜擢され見事第一区を指名された。当時の駅伝メンバーは県大会を狙えると言われ校長から大いに期待されていた。
しかし、期待された第一区走者である私の成績は13校中13番であった。私は、脱水症状に陥り、フラフラしながらゴールはしたものの、意識がなくゴールで倒れ込んでいた。当時の私に言い訳があったと思うが、何はともあれ本番に弱いことが露呈した。
登校拒否して県内トップの偏差値を誇る高校に入学する
中学校卒業後は県内で1位(または2位)の高い偏差値を誇るM高等学校(公立)に入学した。
私は、中学校で生徒会長に就任した。生徒会長に立候補した理由は定かではないが、当時在籍していたクラスから生徒会長候補者を選出する必要があったが希望する者がおらず、休みを取っていた私を候補者に仕立て上げたと記憶している。今の時代であれば「いじめ」かもしれない(笑)。また、私はうっかり生徒会長の選挙に勝ってしまった。
生徒会長に就任できたことは良い経験だと思うが問題はこの後に起きた。先生から「歴代の生徒会長はM高等学校に入学している。しかも、歴代の生徒会長は併願(受験の際に2つの学校に願書を出すことです。)はしていない。」という話を聞かされた。更に、私に止めを刺すかのように「君の成績では無理だ。これで歴史は終わる。」と呟かれた。そりゃなんて言ったって、私の中学校1年生と2年生の学業の成績は下の下だから当然だ。先生の言うことは間違いではない。
しかし、短気な私は、猛烈に頭に来て完全に火がついた。私には、不愉快な歴史を押し付けられる言われなく、諦めるという選択肢は間違いでは無いが完全に火がついた私は選ぶことができなかった。そして、私は、M高等学校に合格するための対策を考えた。私の選択肢は、学校に行くことを辞めること、そして、自宅に篭り猛勉強をすることだった。登校拒否は、内申点(ないしんてん)が下がる行為であり受験には不利となるが先生は私の投稿拒否を許し、内申点を高評価にした。おそらく先生の皆様は、不愉快な歴史を重んじていたのだろう。おそらく私をブチ切れさせたきっかけを重んじてくれたのだろう。
自宅に篭り猛勉強をした結果、学業の成績は学年10位以内ぐらいには入れたと記憶している。先生の薦めにより滑り止めとして別の高等学校を受けて合格していたが、先生に合格した高等学校を辞退しますと伝え単願で勝負した。そして、見事にM高等学校に入学出来た。
第四章 高校生(3年)
進学高には不良がいない
正確には、進学高では不良とされない。進学高の生徒は「優等生」という誤解がある。
進学高では自分を表現する自由は認められていた。当時、学生服の下にワイシャツを着る規則通りの制服だが、学生服の下に私服を着ても問題ない。男性が口紅をしたとしても問題ない。数学の授業中に持ち込んだ別の数学の本を読んでいても問題ない。授業中に早弁をする程度は全く問題ない。授業終了間際に抜け出し定食屋に行く程度も問題ない。
進学高が優先していることは、卒業後の有名大学への進学率を上げることだと思う。有名大学進学率が高いほど世間から評価されるので当然の方針である。
「優等生」が学業や品行が特に優れている人を指すのであれば、進学高では不良とされる人が居ないのだ。
私は、言い訳が可能な範囲で自由な時間を過ごした。
家ではなく飲食店で勉強する
家に帰りたくない。下校時間後、図書館が閉門するまでには時間がある。図書館近くにあるおいしい丼ぶり飯を出す飲食店に入り浸っていた。毎回注文する金は無いが、時に食器洗いを手伝い、調理場に隣接した4畳半のスペースを借りて勉強をした。店のマスターと店員にはとても親切にしてもらった。あと、店のマスターと店員とはよく麻雀をした。
私は、家では教科書すら開きたくなった。私は、可能な限り家の外で過ごすことを考えた。
プチ家出をして先輩の家で元号の移り変わりを観る
家に帰りたくない。下校時間後、図書館が閉門するまでには時間がある。一人暮らしをする先輩の家に入り浸っていた。先輩の家は風呂無し、トイレ共有の古いアパートの2階にあった。先輩は、スーパーでアルバイトをしており、賞味期限が切れた弁当を持ち帰ってきて私に与えてくれた。今では許されない行為なのかもしれないが当時は普通のことだった。あと、先輩とはよく麻雀をした。1989年1月7日、14時36分。小渕恵三官房長官が記者会見室で、「平成」と墨で書かれた生乾きの2文字を掲げた時も先輩と麻雀をしていた。
そう、私は、家出をしていたのだ。私は、可能な限り家の外で過ごすことを考えた。
私は、1989年3月にM高等学校を卒業するのだが、1989年(平成元年度)の共通第1次学力試験(第11回)は、「平成」へ変わった数日後の1月21、22日に実施された。大学に受かるはずがない。
第五章 浪人生(1年)
雀士になることを夢見る
両親には沢山のお金を費やして頂きお詫びしかない。浪人生活をしていた1年間は、雀荘にフリーで何度も通った(1人で行くことを「フリー」と言い、4人で行くことを「セット」と言う。)。朝日が昇るまで打ち続けた。プロ雀士の著書を読み漁り、いつしかプロ雀士になることを夢見た時がある。両親が、大変な思いをして必死に稼いだお金を使い浪人生活をさせて頂いたにも関わらず麻雀に明け暮れた最低な息子だ。
浪人生活時代の仲間(?、競争相手)は、私の大学合格はありえないと踏んでいた。
慶應義塾大学に唯一合格する
しかし、麻雀に明け暮れた最低な息子が、慶應義塾大学に合格できてしまった。ただし、慶應義塾大学以外の大学には一才合格していない。実は、私が合格した慶應義塾大学の入試科目は、小論文が必須、その他は英語または数学のいずれかを1つを選択する2科目だった。私は、私は数学の勉強は好きであり、教科書以外にも数学の書籍を沢山読み数学を探求していた。この結果、数学だけは唯一偏差値が特に高かったので偶然に慶應義塾大学に合格できてしまった。
母親は、私の慶應義塾大学入学をとても喜んでくれた。
過去に自分が好きなことをして、少しだけでも誰かを幸せにした瞬間だったのかもしれない。
<追伸>
2024年9月父親が他界、2025年2月母親が他界した。亡くなる前日に母親に会いに行き沢山話ができた。
ありがとう。
第六章 大学生(4年)
収支管理をパチンコから学ぶ
慶應義塾大学に入学してからパチンコに明け暮れた時期があった。金曜日の夜に何店舗か周り玉が出ている平台の羽モノ(「ひらだい」とは通常の釘調整のまま遊技するパチンコ台であり、デジタル表示による抽選をしない。)を確認して、土曜日の朝に前日確認した玉が出ている台を陣取る。1990年頃の最寄り駅周辺のパチンコ店は金曜日の夜玉が出ている台は日曜日も玉が出ていた。
パチンコの投資額は1日5,000円を上限として、毎回、パチンコの収支管理を決して怠らなかった。パチンコは勝つことができる。その後、大学2年の終わりには飽きたのかパチンコはしなくなった。
しかし、会社勤めをはじめてから(優しいが)悪い先輩社員のお誘いでパチンコをまたするようになった。
毎月給料が振り込まれるので預金も考えず、収支も記録せず、お金が残っていれば全て費やしてしまった時がある。
会社勤めをしてからのパチンコ収支は完全な赤字だ。
人事異動で(優しいが)悪い先輩社員の元を離れてからはパチンコをしていない。
北海道でさ迷う
1990年8月、大学1年生の私は、「青春18きっぷ」を使い僅かな着替えと水彩画の道具を持ち上野駅から車中泊をして北海道の札幌駅へ向かうことにした。当時の「青春18きっぷ」は、長距離の夜行列車に乗車することができた。
まるで現実から逃避するような衝動的な旅行であり、札幌に住む友人宅を訪問すること以外の旅行計画は無い。北海道は3週間程度滞在したが、十分な所持金も無く宿泊施設を利用することは出来なかった。札幌では友人宅に泊めていただき、旭川では初めて出会った方に泊めていただいた。移動中の車内で睡眠をとることが多く、その他、地下道やバス停など少しでも風を防げる暖かい場所を探して睡眠をとった。8月初旬の北海道の夜間はとても寒かった。
旭川に立ち寄った日は、夏祭りが開催されていた。車両通行止めとなった路上に多くのテーブルが並べられ、たくさんの方が楽しんでいた。私が座ったテーブルに相席した方によると、北海道には毎年私のような旅行計画を持たない旅人が大勢来るようだ。旅人の中には北海道へ移住してしまう方がいるという。相席した方は、時折、旅人に自宅の一室を宿泊先として貸すことがあるという。私にも、フカフカの布団を提供してくれた。
北海道では、札幌、旭川、富良野、美瑛、苫小牧、網走、礼文島・・・いろいろ周った。電車での移動と徒歩での散策を繰り返し、気に入った場所でのんびりし、広大な景色に魅了されて時折絵を描いたり、広い空を眺めながら寝転んだりした。十分な所持金も無いので有料の観光名所は一切訪れていない。
しかし、一宿一飯の恩がある旭川の方や行く先々で出会った方々の温かさに触れる機会が多かった。礼文島(稚内市の西方60キロメートルの日本海に位置する最北の離島)では、漁師のワカメ取りの手伝いをした。正確な経緯を覚えていないが何故か興味が湧いたのだろう。そして、ワカメ取りの手伝いを終えたのち、漁船で礼文島を周遊してもらった。礼文島から本島へ戻る船が終了していたので、その日は、礼文島の屋根付きのバス停を宿にすることにした。バス停で腰を下ろす私に、漁師のご家族が海藻たっぷりの大きなおにぎりを2つ持ってきてくれた。とても美味しかった。
私は、人生に息苦しさを感じていた。一人になる時間を手に入れると途端に糸が切れた凧にように目的も無く飛んで行く。私は、『親の期待に応える』ことを要求され、親の「監視下」で行動し、事実を隠して自ら抜け道を探して行動していたこれまでの人生から抜け出したかったのだ。だから、家ではなく飲食店で勉強したり、プチ家出をしたり、麻雀に明け暮れたり、パチンコに明け暮れたり、北海道でさ迷ったりと糸が切れた凧にように飛んで行ってしまう。
私は、両親が他界した今でも実家に長時間の滞在ができない。落ち着かなくなるのだ。これを「トラウマ」と言うのだろう。
ゼミの最終提出物にパラパラムービーを制作する
慶應義塾大学のキャンパスは、三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢など多々ある。
学部生の多くが三田キャンパスで学ぶ機会がある。
三田キャンパスには、福澤諭吉の三田演説館を筆頭に歴史的な近代建築が残され、国の重要文化財にも指定されている建物がある。とても由緒正しいキャンパスだ。
しかし、私が通った湘南藤沢キャンパスの学部生は三田校舎へ通学することはない。そのため、初めは三田キャンパスの学生からも「異質」扱いされた。雑誌では『未来から来た留学生』などと評価されることもあった(今となっては褒めていたのか、揶揄していたのか定かではない。)。
1990年4月に入学した湘南藤沢キャンパスではインターネットが使え、多くのパソコンが導入されており、レポートは全て手書き禁止だった。『1990年からパソコンを使う』ことができる学部は日本中で指折り数える程しかない。
また、当時、三田キャンパスでは「ゼミ」(湘南藤沢キャンパスでは「研究室」という)に入るか否かは自己選択だが、湘南藤沢キャンパスでは研究室に入ることは必須だ。ユニークなのは半年に1回研究室を変更できることだが、一方で、半年に一回最終成果物を提出する必要がある。私の4期目の研究室の最終提出物はパラパラムービーだ。
パラパラムービーの内容は、同じ研究室の学生だった仲間をキャラクター化して共に過ごした時間をアニメにしたものだ。仲間の声を録音してパラパラムービーに被せた。(なお、パラパラムービーを制作する機材は全て湘南藤沢キャンパスにあった。)
私の『1990年からパソコンを使う』経験は、後の偶然のキャリア形成に功を奏した。
<「偶然のキャリア形成」に関する真面目な解説>
「偶然のキャリア形成」とは、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授が提唱した「計画的偶発性理論」の概念であり、キャリアの約8割は予期せぬ偶然の出来事によって決まるとし、その偶然を自身のキャリアの好機と捉え、積極的に行動することでキャリアを形成していく考え方です。重要な行動特性として、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心の5つが挙げられ、これらの特性を意識的に育むことで、偶然の出来事を「計画された偶発性」としてキャリアにつなげることができるとされています。
水抜き剤の売り上げNO1を勝ち誇る
大学時代にアルバイトは複数同時にしていた。ガソリンスタンド、スイミングスクール、夏期講習の講師など色々した。
ガソリンスタンドでは、私は水抜き剤の売り上げNO1となった経験がある。
水抜き剤の価格は、自動車関連用品を売っている量販店では1本200円程度で購入できる時代に1本800円で売っていた。
悩まれるお客様に対して水抜き剤を入れなかった場合の車への悪影響を説明して車の維持には必須であることを伝え、販売する水抜き剤の成分を他社製品と比較して説明して販売する商品は良いものであることを伝えた。当然、ガソリンを入れて頂いている間の『短時間で説明する』ことを心掛けた。ハイオクガソリンが1リットル150円程度、レギュラーガソリン1リットル120円程度の時代であり、水抜き剤1本800円は高価である。
悪いことをしているわけではないものの、自動車関連用品を売っている量販店とガソリンスタンドの水抜き剤の価格の差を考えると少々心が痛むが、水抜き剤の販売促進は会社の方針であり、アルバイトではあるが給料を頂いているので売る以外の選択肢は考えていなかった。
なお、ガソリンスタンドで販売促進する商品は本当に良いものであるかは『自分で調べる』ことを心掛けた。
私の『短時間で説明する』こと、『自分で調べる』ことを心がける行為は後に功を奏した。
20年後ぐらいだが。
第七章 最初の会社(11年5ヶ月)
親会社と子会社の違いを知らない
「衣」「食」「住」に関わることができれば良いと考え、最も好きな「住」に関わりたいと考え、ゼネコン1社、住宅メーカー2社を受けた。
ゼネコン1社の最終面接に遅刻した。当然に不合格だった。
一方で、住宅メーカー2社は無事に合格したので就職活動を終え、パラパラムービーの制作に時間を費やした。
しかし、後に私がいかに不勉強であったのかを痛感される事態が起こる。
私の生まれ故郷では、不動産会社と住宅メーカーを比較すると住宅メーカーが格上の扱いだ。
不動産会社は、土地や賃貸住宅の仲介が生業であり、住宅メーカーは、居住空間を作り上げるのが生業である。
『不勉強な私』は、親会社が〇〇不動産、私が就職した住宅メーカーが子会社であることを知らない。
『不勉強な私』は、親会社から子会社へ出向する社員が子会社の重要ポジションに就任することを知らない。
『不勉強な私』は、親会社の社員と比して子会社の社員の給料が安いことを知らない。
(新卒の給与は調べれば開示されているので、不勉強に他ならない。)
親会社と子会社の関係を理解したのは入社式の会場だ。
大きな会場の客席の最前列は親会社の社員が着座し、後列に子会社の社員が着座する。当然、私が就職した住宅メーカーは後方に着座した。
『不勉強な私』は、後に減少したものの、当時の私の不勉強さは呆れたものである。
多くの家は売れない
1994年3月に大学を卒業した後に住宅メーカーに入社した。
更地を見ると土地の坪数と価格を考え、地縄(じなわ:図面上の建物の配置を地面に表示する際に張られる紐。)を見ると家の全体像を想像し、基礎を見ると間取りを想像し、家を見ると所有者の拘りを探るほど家が好きだ。
慶應大学を卒業している、家が好き・・・という人物は住宅メーカーではうっかり期待されることがある。
しかし、期待通りに多くの家は売れない。なぜなら『サボり癖』がある。
勿論、全く売れない訳ではない。
私は、住み替え3軒目という素敵なご夫婦(今で言う「パワーカップル」)に、ガレージのシャターには海外製の木製シャッターを提案し、玄関タイルはテラコッタ(素焼きのタイル)を提案し、玄関のフローリングは無垢板を提案し、キッチンの扉は木材を提案し、2階にリビングを設けて三角屋根の形状が見えるよう提案し、契約して頂いた。
私は、素敵なシニアな女性お二人のお住まいとして、シンメトリーの間取りを提案し、音が響かないよう収納などを境界線に寄せた間取りを提案し、、住まいは1階として2階はご親族が来る時の部屋を設けることを提案し、契約して頂いた。
私は、日々節約をされながらもしっかりと貯金し、趣味の旅行を存分に楽しみ、二世帯住居に住むことを希望していた素敵なご夫婦に、(全面タイルは高いので)下部のみタイルを使った重厚感のある邸宅を提案し、ご両親の住空間には広縁(ひろえん)を提案し契約して頂いた。
私は、今でも腕枕をして寝ると話しくださる素敵なご夫婦に2階をリビングとご夫婦の寝室を置き、敢えて子供部屋は1階にする提案(いつでも外出できるので危険な提案)をし、ご夫婦の天井は三角屋根の形状が見えるよう提案し契約を約束してくれた。夕食までご馳走になった。
私は、湘南を好むご夫婦に、2階をリビングにして、天井は三角屋根の形状が見えるようにして、天井にプロペラを設置して、壁には腰の高さに帯状の華やかなクロスを貼ることを提案して、予算の都合を考え外構工事を受注せずご自身が自ら作ることを提案して契約して頂いた。
平日のある日のこと、起きたら昼過ぎで会社に行かなかった日がある。仮病でも使ったのだろう。
通常、車で営業しているのだが木陰スポットに車を停めてよく昼寝をしていた。
『サボり癖』は、後に減少したものの、当時の私のサボり癖加減は呆れたものである。
ダウンサイジングは得意だ
私のキャリアは、偶然の積み重ねだ。
1996年頃、パソコンが窓際に席を持つ役職者に配布された。これで、連絡手段として電話とポケベルに加えメールが追加された。
親愛なる所長は、想像していた通りパソコンの操作が苦手だった。所長は、多くの家が売れない残念な営業の私を頼った。所長は、私に初めて会った時に「彼は売れる」と感じたらしい。
しかし、期待通りに多くの家は売れない私を見捨てず、転職した後も可愛がってくれた。
当時、住宅メーカーにはパソコンに精通していた社員はほぼ皆無だ。それが私に偶然のキャリア形成を引き起こした。
入社4年目の1998年4月に人事部への異動辞令を拝命した。想像できない方も多と思うが、当時の人事部は、多くの社員にとっては雲の上の存在であり、役に立たない社員を遠方に異動させるなど強烈な人事権を保持する部署と考えていた。また、人事部の在籍期間は通常3、4年であり、その後支店長などに異動できるエリートコースと言われていた時代だ。
私が、人事部に配属された理由は明確に理解できた。
私の役割の一つは、データセンターの機器やシステムなどをダウンサイジング(性能や機能を保ったまま縮小、小型化、小規模化することを言う。)してコストを削減することである。
データセンターには大型サーバーと大型プリンタ(2m×1mくらいだと思う)が設置されており、数名の社員が在籍してシステムの管理、並びに給与明細や年末調整の申告書などを印刷していた。当時で年間1億円程度の費用を費やしていたと記憶している。維持管理コストが高額であった大型プリンタを利用した印刷業務は外部へ委託した。
私は、私の役割の一つであるダウンサイジングを見事に達成した。
予期せぬ人事部への配属が偶然のキャリア形成の始まりだった。
私は、数年後に『人事専門職として生きる』ことを決めて転職の道を選択した。
2,500名超の社員の賞与明細の送り先を間違う
最近は、給与や賞与の明細は電子化されてWeb閲覧が増えているが、1997年に人事部へ配属してから退職するまでの2005年までの間は、確か紙の明細を配っていた。社員は毎月代わり映えしない給与明細への関心は低く、支給額が不明な賞与明細には大いに関心を持っていた。私が勤めた住宅メーカーでは、支店長が、賞与支給日の午前9時から直々に社員へ「お疲れ様」と声を掛けながら賞与明細を交付する一大イベントがあった。
しかし、賞与支給日の前夜に賞与明細が全国の支店に送り先を間違えて到着しているという大変事件が発覚した。とある支店の責任者が賞与明細の表紙に記載された氏名を見て送り先を間違えていることに気づき連絡をしてくれた。私は、複数の支店へ問い合わせたところ、ことごとく送り先が間違っていることを思い知らされた。
私は、ダウンサイジングのために社内の大型プリンタを利用して印刷していた賞与明細を外部に委託した経緯がある。私は、委託した会社に原因の調査を依頼したところ、1番はA支店、2番はB支店、三番はC支店・・・という単純な送り先の指示の序列が、一つずつずれていることが判明した。
私は、速やかに人事部長へ報告のうえ謝罪したが、人事部長は私を叱責することなく席を立ち上層部へ報告に行ったと記憶している。
私は、一大イベントの日に大失態を犯してしまった。私は、「会社に居られなくなる。」と言う考えが真っ先に頭をよぎったが、同時に明朝9時開始の一大イベントまでの19時間で賞与明細を正しい送り先に送付したいと考えた。委託した会社と協議した結果、考え出した対策は、2,500名を超える社員の賞与明細を再印刷のうえ再送付を行うこと、並びに、既に届いている賞与明細の回収を行うことだ。今回は、委託した会社の手配間違いであることから対策費用は全て負担するとの約束をもらいつけ、早速、委託した会社に賞与明細の再印刷、全国の支店への配送業者の確保、並びに配送業者による送り先を間違って送付された賞与明細の回収をお願いした。また、各支店の責任者に、賞与明細の受け取りと返却をお願いした。
私は、再度、速やかに人事部長へ賞与明細の再送付を行うことを報告した。その後のことはあまり覚えていない。ただ、私は、明朝までオフィスにおり方々に電話していた。私は「もがき苦しみ」ながらも多くの方の協力を経て、賞与支給日の午前9時までに賞与明細の再配送と回収を成し遂げた。
全ての作業が終了した日の夕刻、委託した会社の責任者など10名程度が会社を訪れ、私に謝罪をした。私は『短気』なので当時どのような態度を取ったのかは記憶に無いが、もしかしたら都合が悪いことは忘れたのかもしれない。
私は、今後多くのトラブルに直面し、都度『もがき苦しみ』解決しようとする人生を歩むとは予想していなかった。
人事専門職として生きると決意をする
私の業務は、「勤怠管理、給与計算、社会保険の手続きなど、雇用に関わる法的な手続きや制度の運用」を行う労務管理業務や「各種福利厚生制度の管理・運営」を行う福利厚生業務へと広がり、豊富な人事経験を自負していた。過去のダウンサイジングによるコスト削減や賞与明細の送り先間違いのトラブル回避などが功を奏したのかもしれないが、徐々に人事部の重要な存在となり、人事部の在籍期間は過去最長となった。
その頃の私は、人事業務に興味を持ち始めており、いずれ異動して営業に配属される今後のキャリアに疑問を感じ、悩んだ結果『人事専門職としての生きる』ことを決め上司に退職の意向を示した。
一般的に、転職先を決めてから退職の意向を示すべきだが、転職先が容易に決まると信じていた『自信過剰』な私は、これまでお世話になった上司に対して、まるで義理立てしているかのように転職先を探す前に上司に退職の意向を示した。
私の人事部の在籍期間は8年5ヶ月という異例の長さであった。
私は、向かうところ敵無と考えるほど『自信過剰』だった。
しかし、『不勉強な私』には想定ができないほど転職は容易ではなかった。
また、やってしまった。
過剰な自信が脆く崩れ去る
私は、1993年からの就職氷河期後の1994年に新卒で入社した。当時の雇用慣行は、新卒一括採用、終身雇用、そして年功序列が基本であり、中途採用に対して消極的な企業が多い時代だ。
昨今は、雇用に関する考え方は随分変化してきた。新卒一括採用を廃止する企業が出てきた。また、中途採用は、多様な人材を融合させ、企業を持続的に成長させる有効な手段として高い評価を受けている。30年近くもの長い年月を費やし、雇用に関する考え方変化をしてきた。
しかし、私の初めての転職活動は2005年であり、まだ雇用に関する考え方は変わっていない。また、当時は、30歳を超えると転職が難しいと言われていた。
また、やってしまった。
『不勉強な私』は、雇用慣行など知る由もない。『不勉強な私』の更に問題だったことは、私が自負する豊富な人事経験は誤りであることを認識していなかったことだ。井の中の蛙大海を知らずとは私のことだった。私の人事経験は『人事業務の狭い範囲を深く追求した』ものであり、決して豊富な人事経験と言えるものではなかった。
面接官から、「人事制度の運用経験のみで、企画・立案経験がないのか。」「給与計算経験のみで、人件費管理をしていないのか。」などと厳しい評価を受けた。それでも、ありがたいことに34歳の私の今後に期待を寄せて内定を出してくれた会社はあったが、どこも採用内定通知書に記載された年収は前職比15%減だったと記憶している。
転職活動により、私は人事経験が狭いことを思い知り、向かうところ敵無と考えるほど『自信過剰』の私の愚かさにこの時ばかりは涙した。
そして、私は勉強することを決めた。
第八章 2社目の会社(1年2ヶ月)
年間200冊超の本を読む
私は、人事コンサルティング(経営課題のうち人事領域の課題を解決する経営コンサルタントの一部)出身の上司を持った。上司は、大量な読書により日々膨大な情報を吸収していた。上司は私に「読書により脳から溢れるほどの情報を吸収し、そして脳から溢れ出たものを活用すると良い」と教えた。
私は、ビジネス本を買い漁り読み始めた。読んだ本を忘れないように題名を記録していたが途中でやめた。ある時から、どの本に書かれていたかは重要では無くなった。この時、私は『年間200冊を超える読書』をしていた。
最初の頃は1冊読み切るために相当な時間を費やしていたが、徐々に上手に読み飛ばしながら速読出来るようになっていた。
しかし、『年間200冊を超える読書』をしたからといって容易に会社に必要な人事制度を企画・立案できるものではない。著書に書かれたことを真似ることはできたが違和感を感じる。その程度には成長してきた。
夜な夜な泣きながら仕事をする
毎日、毎日、企画書を作成した。翌朝、上司に短時間でレビューされて企画書の作り直しを命じられることは多々ある。レビューする上司も大変だが、私に余裕はない。ただ、歯を食いしばり、『夜な夜な泣きながら企画書を作成』した。
しかし、私は、転職活動した時に痛感した『自信過剰』な自分を恥じ、『人事経験が浅い』自分を変えたいと思った。
『年間200冊を超える読書』をしたうえで、『夜な夜な泣きながら企画書を作成』した経験は、以後、存分に功を奏した。
ただし、私は、『もがき苦しみ』解決しようとする人生を進むことが確定した。
第九章 3社目の会社(2年11ヶ月)
自信を取り戻す
3社目の転職活動は、2社目の時と状況が大きく異なり、面接官の私に対する評価は高く転職活動に苦労がなかった。2006年当時の雇用慣行は、未だ、新卒一括採用、終身雇用、そして年功序列が基本であり、中途採用に対して消極的な企業が多い時代であり、1社目の入社時や2社目の転職時から大きく変化をしていないが、ベンチャー企業の中途採用の求人が増えた印象があった。
あれから私の『自信過剰』は随分と角が取れて丸みを帯びており、私は前職比15%減となった2社目の年収水準で採用できるのであれば、当時の私の人事経験は2社目の面接官にとっては年収に十分見合うと評価されたのだろうと冷静に自己評価ができた。いずれにしても、高評価を受けて自信を取り戻すことができた。
会社の倒産による清算業務に従事する
勤めていた東証一部上場の不動産会社が、東京地方裁判所へ民事再生法を申請した。当時の社員は300名を超えている。
大手金融機関から転職してきた上司は、私に早々と「辞めて良いよね。」と言い去った。人事部門の責任者であった私は、社員が失業給付を早期にもらえるよう解雇を次々に実行した。ハローワークに相談して、会社内で説明会を実施していただいた。複数の人材紹介会社に会社内での説明会を開催いただいた。部下には、転職先をすぐに探すように伝えた。
難問は、来年の入社が内定している学生への対応だった。
民事再生法とは、経営破綻の危機にある個人や企業が、事業を継続しながら再建を図ることを目的とした「再建型」の倒産手続を定めた法律であり、会社は存続することを企図している。
しかし、私は再生出来ないと考えていた。連日、鳴り響く電話は株主の怒涛のクレームだ。多くの社員が諦めを感じていた。必死に再建に挑む方も居た。一方で、次を見据えながらのんびり過ごす方がいた。
私は、会社の再建は無いと判断し、来年の入社が内定している学生に対して内定取消しを断行した。
ある日、私が内定を取消した学生の1人がテレビに出演して激怒していた。報道を見た時は辛かったが、激怒は当然であり申し訳ないと思った。
私は、内定を取消した学生の就職先を探し多くの会社の人事部へ電話して受け入れをお願いしたが難しかった。
その後、複数の会社の人事担当者の方から「どのように学生の内定を取り消したのですか?」「内定を取り消した学生に示談金は支払ったのですか?」と問い合わせ電話を受けた。おそらく「内定取消し」を成功させた人事担当者と映ったのだろう。不本意であった。
なお、内定を取消した学生には、お金を渡していないことを証明する。
勤めていた会社が倒産したという、私の稀有な経験は、次の転職先の合格に役立ったと思う。
人事専門職としての生きることを決め転職の道を選択した私には、『社員を解雇する』ことも仕事の一つとなった。
私は、他の誰かに退職を告げられるよりは、私に退職を告げられる方が良いと自分に言い聞かせた。
第十章 4社目の会社(3年3ヶ月)
国家公務員を誤解していた
私の偶然のキャリアの貴重な機会の一つに『国家公務員と働く』経験がある。私の4社目の勤務先は、国の認可法人である。中央省庁内で行われた会社設立の準備段階から関与した。私は、設立準備室で初めて国家公務員と机を並べて働いた。そして、会社が設立された2009年10月から約3年程度の間、国の認可法人で人事総務グループ長という職責を担った。
2008年頃、「公務員の居酒屋タクシー」という言葉が世間を賑わせた。この言葉は、中央省庁などの国家公務員が、深夜帰宅のために公費で購入したタクシーチケットで帰宅する際に、タクシー運転手から無料の酒や食べ物などを受け取っていた慣習を表しており、当時としては大きな社会問題となった。
しかし、私が机を並べて働いた国家公務員は、早朝から終電近くまで一生懸命働き終電に間に合うように慌てて退勤していた。緊急の対応が必要で終電に乗車できない場合を除いてタクシーを使う国家公務員は居なかった。国家公務員は、想像以上に勤勉、かつ長時間働いていた。私は、「公務員の居酒屋タクシー」の報道は、一部の国家公務員の行為が世間に大きく取り沙汰されたものだと確信している。
現在、私は、新聞、雑誌、テレビ、インターネット(ソーシャルネットワーク含む)を通じて多くの報道を見聞きしている。時として、報道を鵜呑みにしてしまうこともある。
私は、『国家公務員と働く』貴重な経験を通じて、『自分の考えで、自分が判断する』ことの大切さに気付いた。
第十一章 最後の会社(11年3ヶ月)
生涯収支シミュレーションを作成する
2023年12月、妻に「死んでしまったら元も子もないからいますぐ会社を辞めて来て」と言われた後、妻の気持ちはとても嬉しいが『気が小さく本番に弱い』という短所を持つ私は『事前に用意する』必要があり、生涯収支シミュレーションを作成しようと決めた。
まず、生涯の支出の前提条件として、1)夫婦それぞれが90歳まで生きる、2)食料品等の基本的な日常生活費の物価は年2%上昇する、3)マンションの修繕積立金は5年毎に18%上昇する、3)マンションの住居内設備に一定のリフォームが必要となる、4)大型バイク(大型二輪自動車)の車検費用と保険料は70歳の誕生日まで発生する、5)80歳から週2時間程度の家事支援ヘルパーを委託する費用が発生する、6)火葬・散骨等の終活費用が発生することなどを置いた。
次に、生涯の収入の前提条件として、1)退職日までの給与・賞与、2)失業給付、3)年金などを置いた。
表計算ソフトを利用して一覧表(貸借対照表)を作成した。左側(借方)には種類別に「預金・収入」を記載し、右側(貸方)には種類別に「支出」を記載した。
明確化した結果、「預金・収入」が不足しており、年金収入だけで夫婦二人の生活を補うことは不可能であることが判明した。
そこで、差額補填方法として、運用をしていない円建て預金を活用した無理のない投資による金利収入を得ること、それでも補いきれない場合はアルバイト収入で補うことを決めた。
2023年当時の東京都の最低賃金は1,113円であり、1日9・5時間×
月20日働けば月211,470円の税引き前収入が得られる。会社勤務中は、月190時間程度の労働時間を遥かに超えた時間働いていたのでむしろ楽である。
ここまで考え尽くして、ようやく会社を辞めても生きていけることを確信した。
細かな前提条件のもと生涯収支シミュレーションを作成できた。
私の『気が小さく本番に弱い』と言う短所が『事前に用意する』という習慣を生み出し、生涯収支シミュレーションを作成しようとする気持ちを導いた。
・・・やはり、短所は役に立つ。
私の『パチンコの収支管理』という不毛な経験が、生涯収支シミュレーションの長期的な収支管理の方法を導いた。
・・・やはり、不毛なことに明け暮れた経験は重要だ。
私の『年間200冊を超える読書』をして得た多くの知識が、生涯収支シミュレーションの列挙した項目の網羅性を導いた。
・・・やはり、成長のための努力は身を結ぶ。
私の『人事業務の狭い範囲を深く追求』した経験が、各項目の試算の正確性を導いた。
・・・やはり、追求したことが強みになる。
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